賭け事



「帰れったら帰れ!」



扉越しに聞こえて来た怒鳴り声に、蘭はドアに手をかけたまま、びくっと固まった。

あれは間違いなく、この病室に入院している彼女の父親の声。


(興奮しちゃダメって言ったのに)


相手が誰かは分からないが、身体に悪いのは間違いないと、
慌ててノブを回しかけた手が、もう一度止まる。



それは、室内から聞こえて来た別の声―――
父とは対照的に、落ち着き払った声が自分の名を呼んだから。




「では、蘭さんとの結婚は―――」

「ふざけんな!会社の代わりに娘を売れってのか!!」


父の怒号に、益々身体が固まる。


(私の結婚?会社の代わりにって・・・)




未だ大学生の蘭にとっては、まさしく寝耳に水だ。

父の会社が上手くいっていないこと、その為に無理をしたせいで倒れ、

入院する羽目になったことは知っていたが、それと自分の結婚がどう結びつくのか。


「そうは言ってません。もちろん、不躾な申し出だということも承知しています。

 ただ、こちらとしては蘭さんの為にも、出来る限りのことをしたいとですね」

「金を出してやる代わりに、蘭と結婚させろってのがか?!

 ンな条件、呑める訳ねーだろ!会社は俺が立て直すっ」


思わず聞き耳を立ててしまった蘭は、混乱しながらも段々と話の流れが分かってきた。


父と話しているのが、誰だかは知らない。


ただ、経営難に陥っている父の会社に対して、援助を申し出た人が居て

―――その条件が、一人娘との結婚だったという訳なのだろう。



所謂、政略結婚だ。



自分で考えて、蘭はその時代的な響きに眉をひそめた。


今時そんな、とは思うが、そういう考え方が完全に無くなってしまった訳ではないし、

何より一人娘である彼女には、いつか自分が結婚する相手が、
父の会社を継ぐことになるという事は紛れもない事実として自然と身についてもいる。


もしくは、彼女自身が―――後を継ぐことになるのか。



そう思って、蘭は胸の前で拳を握る。




ここのところ、ずっと考えていたのだ。


父が倒れてしまったからといって、会社を取り巻く情勢が待ってくれる訳ではない。

むしろ悪い方へ流れてしまいかねないだろう。



それほど大きな会社では無かったが、父が一代で興したものを、
そう簡単に放り出してしまえる筈が無かった。


自分に一体、何が出来るだろう?と考えて、あちこちに相談に行って、辿り着いた選択肢。



社長不在のまま放置しておくのではなく、れっきとした代理となれる人間を、きちんと指名すること。

それには、会社の重役の誰かをと思っていたのだ。

責任と信用が不可欠で、父と充分な連携が出来て、尚且つ新しいことを考えられる者。


何より、苦しい現状を支えるという重責を引き受けてくれる者。

それを相談しようと思って、今日は父のところへ来たのだけれど。


蘭が結婚してしまえば、確かに話は早い。


会社への援助が前提であれば、不安は全て解消されるし、
父の心労も無くなるから、退院も早くなるだろう。



けれどその為に、蘭自身は、見も知らぬ相手との結婚を承知出来るだろうか?




「こうして入院されているのでは、会社を立て直すといっても無理があります。
見通しはそう明るくない」




聞こえてくる穏やかな声。


決して、責めるでも馬鹿にするのでもなく、
淡々と事実を事実として告げていく声は、何故か蘭の中に落ち着きをもたらした。

そう。彼の言う通り、今の父には無理がある。


けれどでは、誰に、何が出来るだろう?

そして蘭に、何が。



今ここで問題にされているのは、蘭自身の話でもあるのだ。


ただ黙って決められるのを、待っていて良い筈がない。

それでは、自分に出来ることは?



「金で、と仰いましたが、融資だけの話では無いのです。

 現状を乗り切るのに必要な援助を、必要な間だけ、ですから。

 もちろん、会社として取引条件などは決めさせて頂きますし、

 それは何も、結婚を無理強いして終わるものじゃありません」


あくまでも会社同士として。


ビジネスの基本を、利潤を生む為の条件は別に存在するのだという言葉に、蘭は目を見開いた。


結婚で全てを引き受ける訳ではない。


それはあくまでも副次的な、謂わばお互いの信頼度を計る為のもの。
或いは協力体制を固くするためのものだと。




―――そう言うのであれば。


その公平さが本当ならば、蘭にも出来ることがあるだろうか?
ただ流されるのではなく、彼女自身に何が出来るかを試みる為の、

そのチャンスを、掴めるかもしれない。




ある意味、賭けのようなものだ。




そう思って蘭はまぶたを閉じる。



相手のことなど何ひとつ分からない。



父がこうまで拒絶反応を示すのだ。もしかしたらとんでもなく嫌な相手なのかも知れない。


今、彼女が考えたことなど鼻で笑われてしまうかも。


それでも、蘭は何故か、信じたいと思ったのだ。

この、声。

含みのない、通る声。彼女を落ち着かせた、人の心を掴むこの声を。



(・・・私、どこかで聞いたことがある・・・・・?)



一瞬、記憶の中を何かが過ぎった気がして、蘭は迷うようにまばたきを繰り返した。


だが、次の瞬間またも父の怒鳴り声が聞こえて、ハッとなった彼女はかぶりを振った。


今は、余計なことを考えている場合では無いのだ。



「ちょっと待って、お父さん!」


興奮するのは身体に悪い。



中に居るだろう相手への挨拶も、考えないではなかったが、
ドアを開けた瞬間、蘭の口をついて出たのは、1番気になることだった。



思いがけないことだったのだろう。



気まずげに娘を見つめる、ベッドの上の父が言葉を失う。

だが、おかげで少しは頭が冷えたようだった。


それに少し安堵して、それから蘭は、近くに立っていた人影へ改めて視線を向ける。


父の他には一人しか居ないから、これが、あの声の主。

そう思って彼を見つめた蘭は、何となく息を呑んだ。


若い男だろうと見当はついていた。

だが、相手は思ったよりもずっと若い。恐らく、蘭よりも3、4歳上といったくらいだろう。

整った顔立ちは甘くて、さぞ女の子にモテるに違いないと、そう思えるものなのに。

軽薄な印象を与えない、侮ることを許さないその瞳。

決してきつい訳ではない。
ただ貫くように真っ直ぐで、何もかもを見通すような、不思議な力を持った瞳だ。


逸らせない。


青く澄んだその瞳に、釘付けになっていた彼女の緊張に気がついたのか。

彼はにっこりと微笑んだ。

上品なその笑みは意外な程に華やかで、印象的なものだったから、
これは違うと、蘭は内心でこっそり思う。

声に、どこか聞き覚えがある気がしたけれど、
こんな人と一度でも会った事があれば、忘れる筈がない。
忘れられはしないだろう。


彼女の心を見透かしたように、相手は笑みを浮かべたまま、初めまして、と挨拶をして来た。




「毛利蘭さんですね? 初めまして、工藤新一です」




声はやはり穏やかに、蘭の耳に届く。



先ほどまでのように扉越しでないせいか、その声が艶やかさを増したように思えて、

蘭は何となく頬を染めながら、同じように挨拶を返し。


それから、彼を見つめ直した。

この、工藤新一と名乗る男を、どこまで信用できるのか分からない。

彼は一体、何処の誰だから、父の会社を助けられると言うのだろう?

そして、取り沙汰されている結婚相手についても。

目の前の彼なのか、或いは彼は単なる使いで、他の誰かだったりするのだろうか。



そもそも、本当に助けが得られるのか。



蘭自身にだって、自分に何が出来て、何が出来ないのかは分かっていないのだ。




けれど、それでも―――賭けてみようと、そう思って。




「あの!お願いがあるんですが」




視線を逸らさずに、彼女が口にしたのは、自分が社長代理となる決意。


そうして。



彼の言っていた援助を、会社だけではなく蘭自身へと頼むこと。




―――結婚が前提でも構わないから。




絶句する父の前で、当の工藤新一は一瞬、目を丸くして。


それから、彼女へ向かって右手を差し出した。

「では、僕が貴女の秘書になりましょう」









これが、蘭にとっては一生に一度の、賭けの始まり。






ゆうきさんより“秘書新一”を戴きました。

先に書かれていた“秘書快斗”から妄想が広がり、
新一バージョンも見たいなぁ〜と強請ること数回。
強請った甲斐がありました!

理論整然と語る新一氏、まさに、策士です(笑)


ありがとうございましたvv